舞台裏「義経じゃないほうの源平合戦」

執筆のきっかけ
 3作目は自分の愛と趣味のほとばしるまま、葛飾北斎をテーマにした小説を書いてみたのですが、読書メーターやブクログに寄せられる感想の数が1、2作目よりも明らかに少ないという厳然たる事実に、私は完全に打ちのめされました。
 そうか……これが商業で小説を書くということかと。

 1、2作目と比べて、3作目の内容が劣っているとは私は一つも思っていません。方向性がガラッと変わっても、小説の内容自体はどちらも素晴らしいと自分は思っていますし、むしろ自分の小説の中でどれが好きかと言われたら、自分の趣味全開で書いた「画狂老人卍」はいまでもかなりの上位に入ります。でも、作者が気に入っているかどうかと、世間の人々がその本を買って下さるかどうかは別問題なのです。
 そこで、歯を食いしばりながら「世間の人々が面白いと思う話は何か?」を徹底的に考え抜いた結果、私が出した結論は「誰もが知っている時代、誰もが知っている人物を、誰もやったことがない切り口で書こう」というものでした。まさに1作目の「あの日、松の廊下で」がそういった方向性で支持を受けたので、それと同じアプローチでもう一本書いてみようと思ったわけです。

 誰もが知っている時代となると、源平か戦国か幕末か――と、その時にふと私の頭に浮かんだのが、中学か高校の時に教科書で見た源平合戦の地図でした。
 鎌倉を出発し、西に向かって進んでいく源義経の進軍経路を示す赤い矢印。それに並ぶようにして描かれている青い矢印を見て、当時の私は「なんだろうこれ?」と思ったのですが、それこそが本作の主人公、源範頼の進軍経路でした。
 当時は「義経の兄ってことは、きっとそれなりにすごい奴だと思うのに、こいつ全然話題になってないよな」という意外性がなんとなく記憶に残っていました。その記憶が次作の構想中に蘇り、誰もが知っている源平合戦の話も、範頼を主人公にしたら全く新しい物語になるのでは? というアイデアが浮かんだという次第です。

裏話
 本作では無謀にも、鎌倉時代の人物が一人称視点で自分語りをするという書き方に挑戦しております。そのほうが私小説っぽくなって読者も共感できると思って軽い気持ちで始めてみたのですが、このせいで地獄を見ました。
 例えば、語り手である範頼に「無鉄砲なふるまい」などという言葉を使わせることはできません。彼の時代には鉄砲がないので。「ぼろ雑巾のように捨てられて」という表現もダメです。繊維製品は当時きわめて貴重であり、そんな貴重品を掃除の道具として使い捨てるようなことはなかったからです。さんざん悩んだ挙句、この表現は「古草鞋のように捨てられて」に書き換えました。こんな調子で、使用する言葉選びにはさんざん苦労させられました。

 それから本作を書くにあたり、私は当然、その年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に便乗することを狙って発売時期を合わせたわけですが、本作は2月末には完成しており、1月に大河ドラマが始まってから内容を修正しようにも間に合わないので、放映開始からはもう毎回、大河に出てくる範頼のイメージが本作と大きくかけ離れたものでありませんようにと天に祈りを捧げる毎日でした。
 幸いなことに三谷幸喜さんと私の中の範頼はそこそこ解釈一致していたようで、範頼を演じた迫田孝也さんの好演もあり「鎌倉殿のキャストの姿で脳内再生された」という好評の声が多く寄せられました。私はもう三谷幸喜さんに足を向けては向けられません。

小ネタ
 本作にねじ込んだ小ネタは、お好きな方にとってはもう一発でわかるやつでしょう。265ページの「戦いは数だよ、義経ッ!」です。
 これはご存知「機動戦士ガンダム」で、ドズル・ザビが兄のギレンに放った名セリフ「戦いは数だよ兄貴!」です。あまりにも露骨だったせいで、「真剣なシーンでこのパロディセリフは興ざめした」というレビューも頂いてしまい、さすがに反省しました。(反省はしましたが、後悔はしていません)