舞台裏「大谷吉継の終わらない関ケ原」

執筆のきっかけ
 本作の企画がスタートしたのは発売の1年3ヶ月前、2024年9月のことでした。
 当時の私は、歴史小説でいくら頑張っても一向に大ヒットにならないことに絶望していました。それで、「もう歴史小説なんてやめてやる」と、半分ヤケクソになって書いたのが『一遍踊って死んでみな』です。

 一方でその頃の私は、2024年5月に発売したフィクション時代小説『実は、拙者は。』がヒットしたことで、ありがたいことにいろいろな出版社様からお声がけを頂いておりました。
 しかし、次の歴史小説を書こうにも、どうすれば大ヒットを出せるのかさっぱり見当がつかない。それで私は、お会いした出版社の方々に片っ端から「できるだけブッ飛んだ歴史小説のアイデアをください。いいアイデアを頂けたらそれで書きます」と頼んで回りました。
 すると、PHP研究所の編集者様が出して下さったのがこの「タイムループ関ケ原」というアイデアでした。このアイデアを頂いた私は「ループものなら、歴史に興味がない人でも興味を持ってくれて大ヒットになるかもしれない」と考え、本作の執筆がスタートしました。

裏話
 初期プロットをご覧いただくと分かりますが、本作は最初、デウスではなく山王権現がタイムループを仕掛けるという設定になっていました。しかし「山王権現がなぜこんなに大谷吉継ばかり特別扱いするのか、理由が弱くてモヤッとする」というご指摘を頂いたので再検討しました。

 それで、大谷吉継がキリシタンであったという説(ルイス・フロイスの報告書に「キリシタンのキノスケ殿」という記述がある)があることを生かして、「吉継がキリスト教に改宗したことに怒った氏神が、吉継を懲らしめるためにデウスのふりをして何度も関ケ原をやり直させる」という筋書きに変えて第1稿を書きました。
 吉継の出身地である近江国には、伊弉諾(イザナギ)尊が居を構えたと古事記に書かれている多賀大社があります。伊弉諾はこういう嫌がらせもやりそうなキャラだし(失礼)、じゃあ偽デウスの正体は伊弉諾にしよう、ということで山王権現から変更しました。

 ところが、そうすると今度は「伊弉諾は吉継を懲らしめようとタイムループさせていたのに、最後になって急に吉継が望むような歴史改変に協力するのは変」という矛盾が出てきます。
 神がなぜ、吉継をここまで執拗にタイムループさせるのかという点は、物語の根幹に関わる部分ですから、どうやってここに納得感のある理由を設定するかは非常に重要な課題であり、私は頭を抱えました。
 で、さんざん悩んだ末に「吉継を懲らしめるためのタイムループなのだから、ゴールは『吉継の心が変わる』でなきゃダメだよな」という結論に思い至り、そこで「そうだ、カトリックなら罪を悔い改めさせる煉獄という概念があるじゃないか!」というアイデアが降ってきて、このようなラストとなった次第です。

 このラストに対して西軍推しの方から、今度こそ西軍が勝つことを期待して読んでいたのでガッカリしたといった感想も頂いたのですが、かといって初期案のままでいっていたら、今度は別の方から「山王権現が吉継を贔屓しすぎでご都合主義がひどい」という感想が来た可能性が高いわけで、物語作りというのは何かを活かしたら何かを殺さざるを得ない、本当に難しいものですね。万人を満足させることはできない。

 私としては、史実改変なしの煉獄オチにしたことで「最初は人の顔色を窺う傾向のあった弱気な大谷吉継が、次第に自分の意見を強く言えるようになっていく成長物語」というコンセプトが明確になり、シンプルで力強いストーリーになってくれたので、このラストにひとつも悔いはありません。

小ネタ
 本作に紛れこませた小ネタは3つです。

83ページ「主よ、どこに行かれるのですか」
→吉継のこのセリフだけ、ちょっと前後のつながりが変になっていますが、これは「クオ・ヴァディス・ドミネ?(Quo vadis, Domine?)」というキリスト教の名場面のセリフをねじ込んだためです。手帳のブランド「クオバディス」も、おそらくこれが名前の由来なのでしょう。

 イエス・キリストの弟子ペテロは、強まる迫害から逃れるために、信者たちを置いてローマを離れます。すると道の途中で、ずっと昔に十字架刑で死んだはずのキリストが向こうからやってきます。
 ペテロが「主よ、どこに行かれるのですか?(クオ・ヴァディス・ドミネ?)」と尋ねると、キリストは「そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行ってもう一度十字架にかかるであろう」と答えます。
 それを聞いたペテロは己の運命を悟り、ローマに戻って捕らえられ、十字架にかけられて殉教しました。

 ここは吉継がデウスにすがるシーンなので、これはいける! と独りでガッツポーズしてブッ込みました。

108ページ「時は今でござる。これは天が下した好機でありますぞ!」
→このセリフの元ネタは、明智光秀が本能寺の変を起こす直前に開いた連歌会で詠んだ発句「時はいま あめが下しる 時雨かな」です。この場面で、外で雨がしとしとと降っているのはそのためです。

 家康に謀反を起こす三成と、信長に謀反を起こす光秀の姿をダブらせ、今回の三成も謀反に失敗して負けることを暗示するという深淵なる意図が……というのは嘘で、ただのお遊びです。

258ページ「人の世にもはや一片の悔いもありませぬ」
→ご存じ、『北斗の拳』のラオウが死ぬ時のセリフです。