舞台裏「あの日、松の廊下で」

執筆のきっかけ
 実はこの小説、私はそもそも時代小説として書こうと思っておりません。本作はそもそも、私の実体験をベースとしたサラリーマン小説になるはずでした。
 あれは三十代の半ば頃だったか、会社の業務の中で、両方とも尊敬できるいい人なんだけど、性格が正反対な二人が喧嘩してしまい、私がその間に挟まってオロオロするという、ちょうど主人公の梶川与惣兵衛が置かれたようなシチュエーションがありました。
 当時の私は「お前はどっちの味方なんだ」と両方から詰められて泣きそうになったのですが、自分はあの時にどう振る舞うのが正解だったのか、もう何年も経ったいまでも答えは出ていません。

 それで、次に書く小説のネタ出しをしている時にこの出来事をふと思い出し、これをネタにサラリーマン小説を書けないかなぁというアイデアが浮かんできたわけです。
 ですが、現代の会社を舞台にしてしまうと内容がどうしても生々しくなってしまうのに加えて、書いている自分自身が辛くて仕方なく、筆がまったく進みませんでした。仕事の気分転換として趣味で小説を書いてるのに、何が悲しくて休日まで仕事のことを思い出して、重い気持ちになりながら小説を書かなきゃいけないのかと。
 それで一旦このネタはお蔵入りになり、その存在自体を忘れ去っていたのですが、ある日、電車の中で松の廊下の場面を元ネタにした中吊り広告を見かけた時に、ふと思ったんです。

「忠臣蔵の松の廊下の場面って、なんだかサラリーマンっぽいよなー」

 その思いつきが「じゃあ、時代劇に仮託してサラリーマンの悲哀を書けるのでは?」という閃きにつながり、さらにお蔵入りしていた未完のサラリーマン小説と魔融合を果たした結果、本作「あの日、松の廊下で」が誕生しました。
 本作は「社畜の教科書」「職場の使えないオッサンの解像度が異様に高い」などと、まるで歴史小説らしからぬ感想をたくさん頂いているのですが、そもそも作者が最初から歴史小説を書く気がなかったのだからそれも当然のことです。

裏話
 私は本作を小説現代長編新人賞に応募したのですが、一次選考も通らずに落選しております。
 私の処女作は「輸送船しきしま」というSF小説で、それは本作の1年前に同賞に応募して二次選考まで通過していたので、1年修行して再チャレンジしたのに成績が下がったのかよとガックリ落胆したものです。
 一回落選した小説を他の賞に出し直しても、大抵はダメだという話はよく聞いていました。ですが、本作の内容には自信があったので、どうしても諦めきれませんでした。
 それで、どうせ応募するのはタダなんだしと、もう一度推敲を加えた上で文芸社様の第3回歴史文芸賞に応募したところ、ありがたいことに最優秀賞を頂くことができました。受賞の電話がかかってきた日の夜は、比喩ではなく本当に興奮して朝まで一睡もできず、徹夜状態のガンギマッた目で翌日の仕事に行ったのを覚えています。

小ネタ
 歴史文芸賞に応募した時の本作のタイトルは、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」をもじった「松の廊下でつかまえて」でした。
 ですが実は、私は「ライ麦畑でつかまえて」を一度も読んだことはありません。
 無謀にも、目にした時のインパクトの強さだけで私はこの安直なタイトルをつけたわけですが、パロディのタイトルなのに内容が一切「ライ麦畑」と関係ないのはさすがにまずいよなと考え、「十四.元禄十四年二月十一日(事件の一か月前)」の197ページ以降のところに、梶川与惣兵衛が「私は田んぼの畔のつかまえ役になりたい」と心の中で思うというシーンを後から追加しています。

 これは「ライ麦畑でつかまえて」で、主人公の少年が「自分は、ライ麦畑で遊んでいる子どもたちが崖から落ちそうになったときに捕まえてあげる、ライ麦畑のキャッチャーになりたい」と述懐するというシーンをもじったものでした。(といっても、私は結局「ライ麦畑」をいまだに読んでないので、これもWikipediaに書かれたあらすじを元に書いたものなのですが)

 ところが、編集者様から「このタイトルは絶対に変えたほうがいい」と強く勧められ、協議の結果「あの日、松の廊下で」にタイトルが変更になったため、「私は田んぼの畔のつかまえ役になりたい」という乱暴にぶちこまれたパロディも宙に浮く形となってしまいました。それでこのシーンは「私は人の世の阿弥陀になりたい」に書き換えられて現在の形に至っております。

 今になって振り返ると、タイトル変更を提案したこの時の編集者さまの判断は実に的確で、しょーもない底の浅いパロディを強引に入れなくて本当によかったなと思います。(とかいいながら、私はこの後も性懲りもなく毎回パロディネタを仕込んでは痛い目に遭うわけですが……)